社会文化生態学(空間構造2)──地域社会学I2012年12月7日

12月7日も、前回に引き続き都市の空間構造をめぐる議論を見ていきます。前回は、同心円・扇形・多核心という「形態」についての議論を見ましたが、今回は、そのような空間構造をもたらす「要因」についての議論です。なぜ同心円になるかと言うと、ごく簡単に言えば、人や企業の立地選択が、地価や家賃、住環境、中心地へのアクセスなどの関数だと考えられるからです。今回とりあげる社会文化生態学は、そのような経済的・物理的要因だけでなく、社会的・文化的要因の重要性を指摘する立場です。W.ファイアレイは、ボストン中心部の立地を事例に、こうした点を例証していきます。ファイアレイの結論は、「普及している生態学の経済概念は、空間的適応に関する価値的で意味的な側面に対応する別の種類の概念によって、補足されなければならない」(Firey 1945=2012: 58)というものです。


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講義ノートテキスト版
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20121207地域社会学I(空間構造2社会文化生態学)

シカゴ学派社会学への批判と修正2
──空間構造への批判と修正2──

空間構造をもたらす「要因」に対する批判──社会文化生態学

社会文化生態学(倉沢 1999: 71-4)
 社会文化生態学
 文化的価値や感情、シンボリズムなど、社会的・文化的要因を強調
 ヨナセン「人間は、自分たちがもっとも高く評価する価値の実現に、もっともふさわしい地域に分布する傾向がある」
 社会文化生態学によるシカゴ学派社会学への批判
 地価や家賃、住環境、中心地へのアクセスなど、経済的・物理的要因を重視しすぎて、社会的・文化的要因を軽視している


ファイアレイによるボストン中心部の土地利用の研究──社会文化生態学の立場からの研究例(Firey 1945; 倉沢 1999: 71-4)

ファイアレイの疑問
 ボストン中心部の土地利用には、都市の経済的成長にもかかわらず、同心円地帯モデルが想定した変化を示さない部分がある。それは、なぜか?

ボストンという都市
 概要
 マサチューセッツ州東部の都市で、州都。マサチューセッツ湾に臨む、ニュー・イングランド地方最大の都市。人口59万人(2000年)、大都市圏人口545万人(2000年)
 サービス業に従事する人9割。工業や漁業は衰退。
 アメリカの独立とその後の発展の歴史につねに重要な役割を果たしてきた都市
 歴史
 この地に大々的な入植が始まったのは、1630年。2年後この地がボストンと名づけられ、マサチューセッツ湾植民地の首都となる
 1773年、ボストン茶会事件
 イギリスによって課された茶税に抗議して起きたイギリス船襲撃事件
 1775年、イギリス軍の急襲によってボストン郊外で独立戦争が勃発
 歴史観光
 アメリカの独立に関係する史跡や文化施設は、フリーダム・トレイルと呼ばれる散歩道でつながっている
 文化・教育の中枢としての歴史も古い
 ボストン大学、マサチューセッツ大学、近郊のハーバード大学、マサチューセッツ工科大学が一体となって、合衆国の教育・文化の発展の大きな支えとなっている
 ボストンとシカゴの違い
 シカゴ:西部開発時代の先端的な新興都市
 ボストン:アメリカで最も歴史的な都市の一つ
 しかし、シカゴと同様に19世紀から20世紀初頭にかけて人口が大きく増加していた。その点で、シカゴ学派のモデルが当てはまることも考えられる。

ボストンの人口の推移(単位:人)
1790年 18,320 1850年 136,881 1910年 670,585 1970年 641,071
1800年 24,937 1860年 177,840 1920年 748,060 1980年 562,994
1810年 33,787 1870年 250,526 1930年 781,188 1990年 574,283
1820年 43,298 1880年 362,839 1940年 770,816 2000年 589,141
1830年 61,392 1890年 448,477 1950年 801,444    
1840年 93,383 1900年 560,892 1960年 697,197    

事例1:名門住宅地ビーコン・ヒル(Firey 1945: 141-4=2012: 42-9; 倉沢 1999: 72-3)
 同心円地帯モデルでは、都心部の高級住宅街は、都市の成長に伴い住民が郊外へ転出するため、スラム化する。しかし、ボストンの名門住宅街ビーコン・ヒルは、都市の成長にもかかわらず、高級住宅街であり続けた。その理由は、住民がビーコン・ヒルに抱く愛着という感情が、郊外への転出を妨げ、地区のスラム化を妨げたから。つまり、郊外の環境が良く地価の安い住宅地を選ぶという経済合理的な判断よりも、愛着という感情的な判断が優先された。
 位置
 中央ビジネス地区(CBD)より徒歩5分。低家賃アパート地帯に隣接
 同心円地帯モデルによる仮説
 最初は、高級住宅地であっても、やがて推移地帯に飲み込まれ、スラム街に変容するはずの地区
 ファイアレイによる検証
 人びとがビーコン・ヒルに抱く感情
 審美的な感情
 パンフレットや記事におけるビーコン・ヒルの形容のされ方
 この神聖な気高さ(this sacred eminence)
 威厳ある古き時代の外観(stately old-time appearance)
 古風で趣のある魅力(age-old quaintness and charm)
 歴史的な感情
 ボストンの伝説のほとんどがビーコン・ヒルについてのもの
 「ビーコン・ヒルは、独自の伝統を持っている。その伝統は、読書好きの人たちによる親切なもてなしに始まって、そうした趣を決して失わない。確かに、私たちの通りは、不便で、急勾配で、滑りやすい。通りの角は、急で、その輪郭は曲がっている。ビーコン・ヒルを妬ましく思う周りの人たちの嘲りに根拠がないわけではない。ビーコン・ヒルのいとしいうねった道路は、まさに、大昔のぬかるみの中に上の空の雌牛によってつけられた跡なのだ。」(Firey 1945: 141=2012: 43)
 著名な文学者の多くは、住んでいる土地の持っている個々の歴史から純粋な満足を得ている
 家族的な感情
 少なくない家族が、上流階級の居住地として発達し始めた1800年頃から、同じ場所に暮らしている
 ビーコン・ヒルに生まれ育ったことが、誇りとなる
 ボストンの名士の居住分布の変遷
 1894年から1943年までの50年間にわたる名士録を用いて、ボストンの名士とされる人びとの居住分布の変遷を調べる
 結論:ビーコン・ヒルは、全期間を通じてボストンの名士の集中する高級住宅地であった
 ボストン市内の他の高級住宅地に住む名士の数が減っているなか、ビーコン・ヒルだけが、名士の数を減らしていない。その一方で、ボストン郊外の高級住宅地では、名士の数が増えている
 ビーコン・ヒル以外の場所においては、同心円地帯モデルが適合しているが、ビーコン・ヒルは、例外
 ビーコン・ヒルにおける1890年から1905年にかけての名士の減少
 新しくバック・ベイが、上流階級向けの豪華な居住地として開発されたため、ビーコン・ヒルの一部の人びとがバック・ベイに移動
 ビーコン・ヒルに残った古い家族たちは、不動産や建築家などの指導のもと、魅力ある街づくりを開始
 古い建物の植民地時代の外装を残して内装を近代化し、居住用として家族に売り出す
 建築的な調和を保つために、周りに住む家族も、こうした改築計画に合わせて自宅を改造
 その結果、1905年から1929年までに、ビーコン・ヒルに住む名士の家族は、120家族増加
 1922年にビーコン・ヒル協会(Beacon Hill Association)を設立
 直面する賃貸アパートや商業施設の侵入から、ビーコン・ヒルの歴史的雰囲気を守る
 当時、行政による、工場・住宅地帯などのゾーニングが行われようとしていた
 ビーコン・ヒル協会は、ゾーニングに対して体系的な勧告を行う
 建物を20メートル以下の高さに規制
 二つの通りを除いて、商業施設を排除
 集合住宅の大きさの規制
 1924年のボストン市のゾーニング条例には部分的には反映されなかったが、有害な土地利用に対して継続的に反対を唱える
 高さ50メートルの400万ドルの高級集合住宅建築に対して、公聴会に集団で出席して反対し、建築を阻止する
 1930年には、「センチメンタリスト」という批判の中、実質的な高さ規制を勝ち取り、1931年には、ビーコン・ヒルを商業化する請願を阻止する
 ファイアレイによる解釈
 地価や家賃といった経済的要因ではなく、人びとがビーコン・ヒルに対して抱く感情がこの地域を守ってきた
 人びとの文学的・歴史的感情や家柄意識というものが、ビーコン・ヒルという空間的表現に結晶した

表1: ボストンにおける上流階級の家族の数(Firey 1945: 141=2012: 45)
年 1894 1905 1914 1929 1943
  実数 割合(%) 実数 割合(%) 実数 割合(%) 実数 割合(%) 実数 割合(%)
ボストン市内                    
ビーコン・ヒル 280 14.6 242 9.9 279 10.7 362 13.4 335 11.3
バック・ベイ 867 45.1 1166 47.7 1102 42.3 880 32.5 556 18.8
ジャマイカ・プレーン 56 2.9 66 2.7 64 2.5 36 1.3 30 1.0
その他の地区 316 16.4 161 6.6 114 4.4 86 3.2 41 1.4
                     
郊外の町                    
ブルックリン 137 7.1 300 12.3 348 13.3 355 13.1 372 12.6
ニュートン 38 2.0 89 3.6 90 3.5 164 6.1 247 8.4
ケンブリッジ 77 4.0 142 5.8 147 5.6 223 8.2 257 8.7
ミルトン 37 1.9 71 2.9 106 4.1 131 4.8 202 6.8
デッドハム 8 0.4 29 1.2 48 1.8 69 2.5 99 3.4
その他の地区 106 5.5 176 7.2 310 11.9 403 14.9 816 27.6
                     
ボストン市内小計 1519 79.0 1635 67.0 1559 59.8 1364 50.4 962 32.6
郊外の町小計 403 21.0 807 33.0 1049 40.2 1345 49.6 1993 67.4
                     
合計 1922 100.0 2442 100.0 2608 100.0 2709 100.0 2955 100.0

事例2:ボストン・コモン(Firey 1945: 144-6=2012: 49-53; 倉沢 1999: 73-4)
 CBDのすぐ横にあるボストン・コモンは、交通渋滞を引き起こす原因となっている。交通事情を改善するために、ボストン・コモンの開発計画が何度も出されるが、そのたびに計画は頓挫する。その理由は、ボストン・コモンに聖なる感情を抱くボストン市民が、開発計画に反対するからである。つまり、交通事情を改善して経済的発展を促進しようという経済合理的理由よりも、市民の抱く感情的理由が優先される。
 ボストン・コモン
 300年の由緒を持つ共有地。18世紀までは、植民者たちの共同放牧場であり、市民兵の演習場。現在は、ボストンの中央ビジネス地区に接して、東西に細長く延びる公園
 ボストン・コモンに対する人びとの態度
 「簡単に言えば、ボストン・コモンには、親密なものであれ、私的なものであれ、公的なものであれ、積み重ねられたわれわれのすべての思い出が存在している。」(Firey 1945: 144=2012: 50)
 「ボストン・コモンは、過去、現在、そして未来にあっても、伝統と鼓舞激励の源泉であり続けるだろう。ニュー・イングランドの人びとは、そこから、信仰を新たにし、道徳的な力を発見し、成長と達成の能力を強化するのである。」(Firey 1945: 144=2012: 50)
 ボストン・コモンは、純粋な歴史的感情を象徴する「聖なるもの」
 数々の法律によって、ボストン・コモンは、売却から、建物や鉄道・道路の建設から守られている
 ボストン・コモンの開発問題
 中央ビジネス地区にくさび形に割り込んでいるボストン・コモンを緑地として維持していくことは、ボストン中心部の土地不足を招き、商業地の小ささ、交通渋滞、地価の高さ、ビジネス地区の細長さの原因となり、経済発展に対する大きな障害
 ボストン・コモンだけでなく、独立戦争の重要人物が眠る共同墓地や、独立宣言が読み上げられた州議事堂などが、商業地に点在し、効率的な商業的土地利用を阻害している
 たびたび道路拡張計画、道路建設計画、地下道建設計画、地下鉄敷設計画などが出される
 しかし、開発計画が出されるたびに、市民の反対運動が起き、再開発は挫折する
 ファイアレイの解釈
 開発計画が挫折するのは、ボストン・コモンがボストン市民の集合的感情のシンボルであるがゆえに、神聖視されて守られてきた結果である。

事例3:イタリア人街ノース・エンド(Firey 1945: 146-8=2012: 53-8; 倉沢 1999: 74)
 同心円地帯モデルでは、経済的に成功した移民は、郊外に転出するが、ボストンのイタリア人街ノース・エンドでは、移民の1世に関しては、転出例が少ない。郊外に転出しない理由は、家族や同郷人との絆を大事にするというイタリア的価値観を移民1世が保持しているため。つまり、居住地の環境という合理的理由よりも、人との絆という社会文化的理由が優先されている。
 ノース・エンド
 「ボストンの古典的貧困の場所」として知られるスラム地区
 ホワイト『ストリート・コーナー・ソサエティ』の調査地(Whyte 1943)
 次回授業時に詳細を紹介
 同心円地帯モデルによる推論
 イタリア系住民の中でも、成功した人びとはノース・エンドから出ていき、貧困層が堆積するはずの地区
 ファイアレイによる検証
 人口の転出入統計を調べる
 転出者のほとんどが、移民の2世であり、1世の転出例は少ない
 転出者のほとんどが、24歳以下の若年層であり、成人の転出はきわめて少ない
 ファイアレイによる解釈
 イタリア系住民は、同家系・同郷出身者の強い結合を特色としている
 結婚した子女は、できるだけ親の家またはその近所に住む
 それは、「ノース・エンドに住むことは、イタリア的価値体系の空間的系」であり、転出は、このような価値観を捨てて、アメリカ的価値へ同化することを意味する
 したがって、芸能人・スポーツ選手・レストラン経営などで成功しても、ノース・エンドを出ていこうとしない
表2: 出生別1930年から1940年までのノース・エンドからの実質的な転出(Firey 1945:147=2012: 55)
出生別 1930年の人口 割合(%) 1930年から1940年までの実質的な転出 割合(%)
アメリカ生まれ(第二世代) 12553 59.46 3399 76.4
イタリア生まれ(第一世代) 8557 40.54 1049 23.6
合計 21110 100.00 4448 100.0

ファイアレイの結論
 「普及している生態学の経済概念は、空間的適応に関する価値的で意味的な側面に対応する別の種類の概念によって、補足されなければならない」(Firey 1945=2012: 58)
 1.「空間は、一定の文化的価値のシンボルという性格を持っている」
 空間の価値は、地価などの経済的な指標だけでははかれない
 2.「立地選択行動は、単に経済的要因のみを考慮するものでなく、感情によって支えられている」
 人間は、ホモ・エコノミクス(経済人)ではなく、感情によって動機づけられる存在
 経済人:自己の経済的利益を極大化することを唯一の行動基準として経済合理的に行動する人間の類型
 上記1と2という要因のため、ボストン中心部で、バージェスの同心円地帯モデルが想定しなかった土地利用がおこなわれている

 高山による補足
 ただし、シカゴ学派も、人びとの感情やシンボリズムという社会文化的要因を無視していたわけではない。『ポーランド農民』の態度や価値や状況規定などの概念からわかるように、人間が物理的かつ象徴的な二重の世界に暮らすことを十分意識していた。


参考文献
 Firey, Walter, 1945, "Sentiment and Symbolism as Ecological Variables," American Sociological Review 10: 140-8.(=2012, 松本康訳「生態学的変数としての感情とシンボリズム」森岡清志編『都市空間と都市コミュニティ』日本評論社, 39-58.)
 倉沢進, 1999, 『都市空間の比較社会学』 放送大学教育振興会.



都市空間と都市コミュニティ (都市社会学セレクション 第2巻)
日本評論社
森岡 清志編

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