富山病院看護学校社会学20110622(開かれた精神医療と精神障がい者が地域で暮らす可能性)

前回の授業(6月15日)で、病院が病人を生み出す原因の一つとして「病院外と病院内のルールの乖離」をあげました。その内容を受けるかたちで、今回(6月22日)の授業では、「病院外と病院内のギャップを最小限にする試み」を紹介しました。取りあげた事例は、1968年に設立された「全開放制」の精神病院「三枚橋病院」(群馬県太田市)です。病院を設立した石川信義医師の著書『心病める人たち──開かれた精神医療へ』(1990年、岩波新書)の一部をコピーして配布し、開かれた精神医療を作っていく実践例を見ていきました。

授業の後半に取りあげたのは、北海道浦河町にある「べてるの家」です。石川医師の全開放制の精神病院でも、病院設立10年経った頃に、退院できない長期入院患者の存在が問題になってきます。その問題に対処するために、石川医師らは、病院の外に共同住居や共同作業所を作っていきます。べてるの家は、こうした挑戦のもっとも成功した例に思えます。授業では、べてるの家の自主ビデオ『「ベリー・オーディナリー・ピープル」予告篇その(4)──安心してさぼれる会社づくり』(1995年)の一部を学生に見てもらいました。

これらの活動は、映画『カッコーの巣の上で』に登場する精神病院とは対極に位置するものです。これまで、精神医療について暗い話が続いていました。今日の授業で、学生のみなさんには、ある程度明るいイメージをもっていただけたのではないかと思います。


講義ノートはこちら(MS Word, 39Kb)
http://dl.dropbox.com/u/22647991/20110622%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E7%97%85%E9%99%A2%E7%9C%8B%E8%AD%B7%EF%BC%88%E4%B8%89%E6%9E%9A%E6%A9%8B%E7%97%85%E9%99%A2%E3%83%BB%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%AE%E5%AE%B6%EF%BC%89.docx


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講義ノートテキスト版
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20110622富山病院看護

開かれた精神医療と精神障がい者が地域で暮らす可能性

前回の授業内容
 「病院が病人を生み出す可能性」を検討
 その原因の一つとして、病院外と病院内のルールが乖離していることが考えられる
 病院外のルールにしたがって、病院内のルールにしたがわないと、精神障がいと診断され、ロボトミー手術をされてしまった
 例:マクマーフィ
 病院内のルールにしたがって模範的な患者になると、病院外のルールに沿った生活が遠のいてしまう
 例:マクマーフィ以外の患者たち
 病院が病人を生み出さないためには、病院外と病院内のギャップは、必要最小限にすべきではないか。


ノーマライゼイション(ノーマリゼーション)
 できるだけ一般的な人びとに近い社会生活を精神障がい者に送ってもらう
 1950年の「精神衛生法」は、「病院での治療」が原則
 1995年の「精神保健福祉法」は、「病院での治療に加えて地域社会での生活」を目標としている
 疾病構造の変化
 医学の進歩により、治療できる病気は治療される結果、相対的に、慢性病の増加や高齢者の増加する(疾病構造の変化)
 完全に治療できない病気が増えてくる → 障がい者の増加
 病気を完全に治療するよりも、病気と折りあいをつけながら、「生活の質」(QOL)を高めることが大事になってくる


開かれた精神病院を創る試み──石川信義『心病める人たち』の紹介
 精神病院における入院生活を一般の社会に近いものにする試み

舞台
 三枚橋病院
 群馬県太田市長手町1744番地
 1968年5月に精神科・神経科専門病院として誕生
 可能な限り一般科医療に近づけようと言う思想の元に入院の療養は全開放で行い「開かれている病棟」を目指して現在まで職員一同が努力
 入院病棟
 精神科急性期治療病棟(54床)
 急性の精神症状に対して集中的な治療をする病棟
 精神科一般病棟(59床)
 身体疾患の合併等、症状に応じて治療する病棟
 精神療養病棟(60床×2棟)
 病状が安定し比較的長期に療養する病棟

『心病める人たち』の紹介
 著者:石川信義(いしかわ・のぶよし)1930年生まれ
 序の章「かつて町に住んでいた彼ら」
 著者が幼かった頃の思い出
 心病む人「てっちゃん」
 てっちゃんは、「ドンブリ一杯、薪割りイチーンチ!」と言って、近所の家で薪割りをしてご飯を食べていた。
 幼い著者は、てっちゃんが薪割りをする様子を、傍らで見ていた。「てっちゃん、上手だネッ」。
 「なぜ、彼は薪割りを担いで町なかを歩けたのか? 今なら、精神病院帰りの男が薪割りを持って歩いていたら、たちまち、警察へ通報がいってしまうだろう。また、なぜ、薪割りをふるう病院帰りの男のそばに、幼い私がしゃがみこんでいるのを、私の母は平気で見ていられたのか? 今の母親たちなら、“気のおかしい人”のそばへ、決して自分の子供を近づけようとはしない」(石川 1999: 4)。
 かつて、心病む人たちは、町なかで、一般の人たちの間で暮らしていた。そういう大らかな時代があった
 I-1章「ひどい精神病院」
 昭和38年(1963年)、著者は、精神科医になって初めて、精神病院を訪れる。しかし、そこに、「てっちゃん」はいなかった。
 N病院の閉鎖病棟の様子
 悪臭が鼻をつき、吐き気がこみ上げる。重くよどんだ空気のなかに、100名近い患者が、うようよとひしめいていた。「人間倉庫」(石川 1999: 12)。
 百数畳はあろうかという仕切りのない大部屋。ささくれてどす黒くなった畳。板張りの廊下。すべての窓に赤さびた鉄格子。「人の住むところではなかった」(石川 1999: 12)。
 多くの患者は、汚らしい格好をして、だらーっと両足を投げ出し、壁にもたれてうつむいていた。皆、むっつりと黙っていた。彼らは、一様に陰惨で暗く、凍りついたような顔をしていた。
 トイレの戸は50センチくらいの幅で、しゃがむ患者の下半身が丸見え。
 天井近くに小窓があるだけの暗い保護室。床一面に糞尿。ひどい悪臭。
 患者をアゴで使い、麻雀をしている看護者たち
 「“人間倉庫”と呼ぶにふさわしい建物そのままに、彼らは人でなく“物”としてあつかわれていた。“物”としての存在しか認められないから、彼らのほうもやむなく“物”となった」(石川 1999: 17)。
 ショックを受ける新人医師の著者に対する先輩たちの言葉
 「『それと大同小異の病院なんかゴマンとあるよ』、そう言って、みんな笑った」(石川 1999: 18)。
 I-5章「開放への試み」
 既成の精神病院に見切りをつけ、都立松沢病院を去った著者は、昭和43年(1968年)、自ら三枚橋病院を建てる
 三枚橋病院のスローガン
 「従来の精神病院のもろもろの慣習・制度のうち、治療を阻害していると考えられるすべてを、まず、とっぱらってみる。そこから生まれるであろう新しい状況のなかから、精神病院の正しい医療のあり方を考えていく。この病院を、その実践の場としよう!」(石川 1999: 67)。
 逆、逆を行く病院を創る
 「『鍵が必要』なら、鍵を捨てる。『規則・慣習を守らせる』なら、そんなものは作らない。『生活療法は有効』なら、それを無効と考えてやらない。従来の精神病院で常識として通用してきたこと、そのすべてを疑い、すべてをひっくりかえして、逆、逆を考えてみる。きっと、そこから、なにかが生まれてくるはずだ……」(石川 1999: 68)。
 患者の健康な部分を伸ばす
 「ここでは、とびっきり、明るくやろう。しかめつらしないで、肩の力をぬき、おおらかに患者たちを受けとめていこうと思った。それには、彼らの病的なところをあまりほじくり返さないことだ。(中略)彼らの健康なところだけを常に私たちは取りあげ、ただひたすら、その健康な部分を伸ばすことだけを心がけよう。それには、なによりまず、私たちの方から彼らを信用してしまうことだ」(石川 1999: 68-9)。
 全開放制病棟の実現
 朝6時から夜9時まで、病棟の玄関に鍵をかけない(12年後には、24時間、鍵をかけなくなる)
 面会は原則自由
 外出も原則自由
 外泊は許可制
 手紙や葉書、電話は自由
 私物品検査は一切しない
 お金の所持も自由
 男女交際も自由
 ただし、次のことは禁止
 喫煙所場所以外での喫煙
 飲む(飲酒)、打つ(ギャンブル)、買う(女遊び)
 金銭の貸し借り
 お祭り的行事の数々
 ひな祭り、観桜会、文化祭、プール開き、キャンプ、夏祭り、運動会、お月見、演劇、クリスマス、餅つき
 文化祭では、地域の人びとを病院に招待する。「病院と地域の交流の場」。子どもたちの精神病院に対する偏見をなくすねらいもある。
 規則に対する考え方
 「従来の精神病棟で見られた数多くの制限や規則や禁止条項はほとんど廃止した。制限や規則などというものは、精神病院では、作り出したらキリがない。それらをキリもなく作っておいて、守る方、守らせる方、双方で必死になるなんてつまらないことだ。だから、私たちは、はじめ規則も禁止も作らないでおいて、どうしても必要となった事柄だけを患者たちと話し合って決めることにしよう、と思った」(石川 1999: 75)。
 患者が変わった
 「鍵を開放し、うるさい規則をなくしたら、患者が変わった。どこの病院にも、熊のように廊下を往ったり来たりしている“徘徊患者”がいるものだ。それがいなくなった。突然ガラスをガチャンと割る“衝動行為”、それが断然少なくなった。これまで病気のせいだと思っていた異常行動の多くが、拘禁による人工的産物であることがわかった」(石川 1999: 81)。
 治療者側も変わった
 「彼らがすこし明るさを取り戻して、こちらの気も楽になった。支配でなく援助の姿勢がとれるようになって、こちらも生き返った。鍵と鉄格子に呪縛されていたのは、実は、患者だけではなかった、私たち治療者もそれに呪縛されていたのだ。そのことがはっきりわかった」(石川 1999: 81)。
 I-7章「精神病院医療の限界」
 かなりの数の長期在院患者の発生
 月に30人強、年間に400人近い入院患者
 その7割あまりは、3ヶ月以内に退院。1年以内ならば9割が退院。
 しかし、残りの数%の患者は、1年以上の在院を余儀なくされていた。そういう人びとが、年々積み重なっていく
 著者は、三枚橋病院の実践を過信していたと反省
 「病院は、所詮、施設でしかない。施設には施設としてのマイナスがある」(石川 1999: 103)。
 長期在院の理由
 「彼らの病状はほぼ固定している。彼らが社会で生活できないのは、家を失ったことだけによるのではなくて、長期にわたる入院のために生活する技術や手段を失ってしまったからだ」(石川 1999: 104)
 長期在院患者への対応の方向性
 「院内活動で彼らを変えて、自立できる人間に仕立てようと努力するよりは、彼らがいまの姿のままでも社会で生活するには何が必要か、その具体的条件を作る方向に私たちの努力を注いでいくこと」(強調は原文)(石川 1999: 104)
 「彼らの姿そのままで、彼らが社会で生活できる方法を見出し、それを実行してみること」(石川 1999: 105)
 「共同住居」の開設
 一人暮らしは無理という患者を複数で一つの家に住まわせる住居
 昭和53年(1978年)に開設した共同住居第1号は、1年後に閉鎖。しかし、入居していた6人の患者は、たくましくなり、再入院しないですんだ。
 昭和56年(1981年)には、共同住居の第2号、第3号を作り出す
 昭和60年(1985年)以降は、三枚橋病院が所在する太田市が、国から「被保護精神障がい者社会復帰対策事業2カ年計画」に指定され、共同住居は、一気に、15軒ほどになる
 「日銭棟」の開設
 働いた患者の工賃を出来高払いでその日のうちに支払う共同作業所。病院の使っていない旧外来棟を改造。洗濯バサミやスリッパなどを作成。
 共同住居で暮らしている人たちに、昼間、通ってもらい、日常的なサポートをおこなう
 共同住居や日銭棟の活動は、医療報酬にカウントされないので、病院の経営としては、まったくわりにあわない
 共同作業所「麦の家」
 院内にあった日銭棟を、地域に移す
 市民に呼びかけて募金をつのる。市民団体を講演会にする。県や市に訴える。設立、運営の資金は、社団法人して会員をつのり、会費でその一部をまかなう
 住民の反対運動で、いったん決まりかけていた予定地が白紙撤回
 病院から300メートルのところの土地を、難行苦行の末に確保
 昭和61年(1986年)に完成


べてるの家の実践──精神障がい者と地域住民がともに暮らしやすい町を作る
べてるの家の概要
 べてるの家とは
 精神障がい者の人びとが、日高昆布の産地直送事業などの地域ビジネスを起こす。それは、地域ビジネスや地域活動をとおして、精神障がい者と地域社会の共存共栄を目指す試み
 1984年4月に浦河教会旧会堂を改修し、「べてるの家」として精神病回復者の活動拠点となってからのべてるの歩みは平坦なものではありませんでした。昆布の下請け袋詰めを始め、自主製品「だしパック」を開発し、福祉ショップを開店し、有限会社を設立し、べてる総会で幻覚妄想大会を開催し、FAX通信を発刊し、テレビでべてるが紹介され…。この20年ほどのべてるの歩みの中で、メンバーは常に苦労とともに生きてきました(旧ホームページより)
 失った苦労の醍醐味を取り戻す
 これまでの精神障がい者は、助けられすぎてきた=苦労して悩む機会を奪われてきた。べてるの家の実践は、商売をすることで、「苦労して悩み、皆で乗り越えていく」という人間らしさを取り戻す試み
 医学=「囲」学、看護=「管」護、福祉=「服」祉(浦河べてるの家 2002: 42)
 つまり、精神障がい者の「囲い込み」と「管理」と「服従」
 FAX通信「ぱぴぷぺぽ」169号
 向谷地SW「精神科のみんなは今まで援助者に『たすけられすぎ』てきました。べてるのみんなも20年前はそうでした。例えば『入院中にジュースを買いたい』と思ったら、『3日前』にジュースを買うために外出したいと外出届をださなくてはならないというきまりがありました。『規則正しい生活』を援助するためにしていたのです」
 下野くん「援助されすぎて、規則→くすり→注射で、自分で判断できなくなって、もうろうとしてくるんだよね。援助の被害者だったんだよね~」
 川村Dr「『治す』という援助よりも、べてるでは、『現実の苦労に向きあえる』という援助が大事。病気の症状が治っても、現実の問題はなくならないからね。問題にむきあうには、仲間が必要。べてるでは、その点、仲間はいっぱいいる」
 「社会福祉法人 浦河べてるの家」のHP:http://urakawa-bethel.or.jp/index.html
 舞台
 北海道浦河郡浦河町
 人口1万4千人ほど(2011年3月)。過疎化と高齢化が進む
 襟裳岬に近い北海道の南部。比較的、雪は少ない
 競馬馬のサラブレッドの産地、日高昆布・サケ・マス・スルメイカなどの海産物が特産品
 べてるの家の組織図(2002年現在)(浦河べてるの家 2002: 付録)
 社会福祉法人 浦河べてるの家
 共同住居
 グループホーム
 共同住居
 小規模通所授産施設 地域づくりセンター「浦河べてる」
 地域ふれあい事業部
 ビデオ事業部
 出版事業部
 地域共同作業所「ニューべてる」
 日高昆布等海産物製造販売うまいもん事業部
 感動事業部(OA関連事業)
 べてるトラベルサービス
 (有)福祉ショップべてる
 福祉機器事業部
 建物管理部
 ワークサービス事業部
 浦河べてるの家の歴史(浦河べてるの家 2002: 付録)
 1978.7 ソーシャルクラブ「どんぐりの会」発足
 ソーシャルクラブ
 在宅の精神障がい者がグループ活動を通して対人関係能力の改善をはかったり社会生活技能のトレーニング等を行って、社会復帰を進める活動
 1983.10 日高昆布の袋詰内職開始
 1984.4 当事者、地域の有志により地域活動拠点「浦河べてるの家」設立
 1988.11 「地域のために」を旗印に日高昆布の産地直送事業を開始
 1992.3 『べてるの家の本──和解の時代』発行
 べてるの家の本制作委員会編。1000円(税込み)15刷・2万部突破の隠れたベストセラー
 1993.7 有限会社「福祉ショップべてる」設立
 1995.5 第1回「幻想&妄想大会」開始
 患者たちが自分の幻覚や妄想を一般の人びとに披露。好評を博す
 1996.3 介護用品のお店「ぽぽ」開店
 1999.10 介護保険事業に進出(介護用品レンタル)
 2002.2 「社会福祉法人 浦河べてるの家」設立

自主ビデオ『ベリー・オーディナリー・ピープル』の鑑賞
 1995年より撮影開始
 ベリー・オーディナリー・ピープルとは、「とっても普通の人たち」の意味
 『「ベリー・オーディナリー・ピープル」予告篇その(4)──安心してさぼれる会社づくり』
 浦河赤十字病院のゴミを回収したり、生協の掃除をしたり、紙オムツの配達をしたり、栄養課の食器洗いをしたり、べてるのメンバーは地域の人達の困っているところにでかけていっていろんな仕事をしています。ただし、それもあくまでもべてる流。けっして無理をしたり頑張ったりはしません。何しろ「安心してさぼれる会社作り」がべてるのモットーですから。
 ビデオの31分~55分(24分)を鑑賞
 安心してサボれる会社づくり(浦河べてるの家 2002: 59-64)
 自分の弱い部分を表明し、自分の代わりとなる人を確保しておけば、会社を安心してサボれる
 一般の会社では、弱い部分を表明すれば、人事考課のマイナスになるし、会社が人件費を削減しようとするため、自分の代わりとなる人間を確保することも難しい → 安心してサボれない → 無理が蓄積されて行き詰まる → 病気
 向谷地SWと下野君の会話
 向谷地「べてるをどんな会社にしたいと思う?」
 下野「まず一人ひとりが、いろいろある仕事を全部覚える。自分がいなくなったときでも、ほかの誰かがすぐ代わりになってくれる会社がいいかな」
 下野君自身が、すこしの不安や心配事にとらわれて働く気力を失い、バテてしまうことが多かったため
 向谷地「社会はいつ休んでも代わりがきく会社? それってサボることが許されるってことかな?」
 下野「そう。安心してサボれる会社がほしいねぇ」
 一人ではできない仕事も、10人でローテーションを組めばできる。一つの仕事に複数のメンバーがチームを作り、毎週のようにミーティングを開き、コミュニケーションを図っていけば、相互に支え合う体制ができる

参考文献
 石川信義, 1990, 『心病める人たち──開かれた精神医療へ』 岩波新書.
 浦河べてるの家, 2002, 『べてるの家の「非」援助論──そのままでいいと思えるための25章』医学書院.




追記
石川信義さんの息子は、ライムスターの宇多丸さんです。

ライムスター宇多丸さんの父親は精神科医の石川信義さんだった!─小島慶子キラ☆キラ2011年9月21日
http://r-takayama.at.webry.info/201109/article_6.html






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